おしらせ

『LAZURITE』Vol.3 試し読み

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illustorated & design by 麦おこわ
published by 無間書房

第二回文学フリマ福岡、無間書房はう―19です。

『LAZURITE』Vol.3のほかに、
・文豪カレンダー
・140字小説集『あなたの実直で純情な倫理に苦しめられている人がここにいます。』

・その他グッズ

を頒布予定です。

今田習作「噛み痕」

春子の噛み癖は物心つく頃からのものだった。乳歯が生え変わる頃は歯茎がムズムズとするものだが、それがすっかり生え変わっても、それから何年経っても、時折疼くのだそうだ。なので、幼いころはいつもタオル地のハンカチを持ち歩いていて、いとまがあれば口に咥えていた。
そんな調子だったので、喧嘩をすると手よりも足よりも先に口が出るようになった。幼馴染の清志とはよくちょっかいを出すのだが、この少年の方が噛み痕だらけになって泣くことがよく在った。春子の母親ははしたないと言ってやめさせようとしたが、「だって気持ちいいんだもの」と言ってきかなかった。
しかし十一、二になる頃になると、早熟な女の子らしく周囲の目というものが気になってきて、人には噛みつかなくなったし、ハンカチを食むのもやめてしまった。それでも無性に歯が疼くときは煎餅のような固いものを気を紛らわせていた。

 

節子「姉馬鹿」

弟が私を姉さんと呼ぶようになったのはいつのころからだっただろう。小学生の弟が「葉子ちゃん」と私を呼んでいたのは覚えている(小学校の卒業証書を持って「見て、葉子ちゃん。卒業してきたよ」と言ったので写真を撮りまくった。あのころから私は姉馬鹿だった。でも、反抗期まっただなかの弟が嬉しそうに証書を見せに来たら、誰だってそうなると思う)。そして中学三年生の弟は私を「姉さん」と呼んだのだ。成長したということだろうか。ならば少し寂しくはあるけれども、喜ばしいことだった。
ところで弟は学校に通っていなかった。「中学三年生」だと言ったが、正確には「順当に進級していれば中学三年生になっているはずの年齢である」ということだ。二年生の夏休み明け、九月が終わる少し前から学校を休みがちになり、十一月にはとうとう一度も登校しなかった。義務教育では、本人が望まない限り留年ということはないらしい。弟のおかげでそんな知識も得た。
弟はもとからそれほど口数が多いほうではなかったが、登校しなくなってからはますますしゃべらなくなった。私はそのころ大学に進学したばかりだった。新しい環境、新しい勉強、新しい友人。目が回るような毎日を過ごしているうちに、弟とはすっかり話さなくなってしまった。家で顔を合わせても、すれ違うだけ。私と食事の時間が重ならないようにしているようだった。
はじめは、それでいいと思っていた。私は何しろはしゃいでいて、自由に楽しく生きている(ように見える)先輩方の真似をするのに夢中だった。家族のことなんて忘れていた。同級生の誰もが、家族なんていないような顔をしていた。私だって、家族のことなんて忘れていた。特に、無口で不登校児の弟のことなんか、忘れていたかったのだ。
それなのに、どうしてだっただろう。急に弟のことが気になってしまったのだ。夏が終わりそうだったせいかもしれない。私たちが生まれて育った家で、弟が、どんな気持ちで、秋を過ごし冬を過ごし春を過ごし夏を過ごし、どんな気持ちで私を見ていたのか。どんな気持ちで両親を見ていたのか。それだけではない、学校に通っていたころには、どんな気持ちで通っていたのか。気づかないうちに随分と涼しくなっていた風のなかで、明るくて透明な金色の夕陽のなかで、そんなことが急に気になってしまった。私は泣き出したいような気持ちになって帰った。帰ったら真っ暗で、両親は不在で弟は部屋の中、私は玄関で靴だけやっと脱いでしばらくへたり込んでいた。結局私は弟が大好きな姉馬鹿だったのだ。

 

神田澪「風切りの墓」

知らず知らずのうちに私の心を包んでいた万能感は、あっけなく剥がれ落ちてしまった。就職活動というものを甘く見ていた罰だった。この身には何の力も無いということを思い知らされ、私はただ呆然としていた。
不採用を告げる長ったらしいメールは今日も届く。私は手帳型のスマホケースをぱたんと閉じ、嫌な文面から思考を逃した。朝っぱらからこんなものを読まされるのは勘弁だ。朝食をとろうとリビングへ行くと、ちょうど母と妹が食卓に皿を並べていているところだった。
「おはよう」
意識して明るい声で挨拶をする。食卓の端にスマホを置くと、私も食事の準備を手伝った。
「おはよう。お姉ちゃん今日も出かけるの?」
妹の結衣はスーツ姿の私を見上げながらそう尋ねた。無理もない。今日は日曜日で、普段仕事に追われている父ですらまだ自室で寝ているのだ。小学生の結衣は、確か午後から友達を家に呼んで一緒にアクセサリー作りをするのだと話していた。私だって、本当は友達と映画を観る約束をしていたのだ。
「そうなんだよねえ。急に面接入っちゃってさ」
「なんか忙しいんだね。私、お父さん起こしてくるー」
母の手伝いを終えた妹はダンダンと派手な足音を立てながらリビングを抜け、階段を駆け上がっていった。そのあり余る元気が今は羨ましい。私はメールの受信ボックスを見るだけでうんざりしてしまうのだから。
椅子に座って妹の帰還を待っていると、向かいの席に座っていた母がはいどうぞ、と箸を渡してくれた。
「ありがと」
「就活はどうなの、順調?」
「うん。一応、面接はちょっとずつ通るようになってきし」
真っ赤な嘘だ。エントリーシートと一次面接だけで何度落とされてきたことか。私は受け取った箸を茶碗の上に置き、音が鳴らないよう気をつけながら唾を飲み込んだ。視線は無意識のうちに母とテーブルとの間を彷徨っていた。
「ま、あんた接客業ずっとやってたもんね。面接も得意っちゃあ、得意か」
笑顔の母に向かって頷きながらも、内心は申し訳なさでいっぱいだった。二十二年間も育ててきた娘が、実はどの企業からも求められない無能だったと知ったら、母はどんな顔をするだろう。特に優れた才能も無い、人の目を引くような個性も無い、そんな人間に育っていると分かったら、自分を責めるだろうか。私は膝の上で握りしめていた拳に力を入れた。
ピユ、ピィユッ。
近くから聞き慣れた鳥の鳴き声が聞こえた。ついでに、カシャンという金属音も。母は椅子から立ち上がり、棚の上に置かれた鳥かごの方へ歩いていった。どうやら飼っているセキセイインコが飛ぼうとして、鳥籠の枠にぶつかってしまったようだ。
「ひまわり、最近よくぶつかるんだよね。どうしたもんかね」
母は少し腰を曲げて鳥籠の中を観察していた。ひまわりとは中でせわしなく動き回っているセキセイインコの名前だ。身体がひまわりのように鮮やかな黄色だから、という理由から結衣がそう名付けた。飼い始めた当初は、そんな安直な名前で良いのかと黄色いこの鳥にやや同情していたのだが、呼び慣れた今となっては最初からそういう名だったのではないかとすら思っている。
「風切羽を切ることもあるらしいよ。この前ネットで見た。まあしばらくするとまた生えてくるらしいけど」
「そうかあ、羽をねえ。でもちょっと可哀想かね」
ひまわりは依然として羽をばたつかせている。ピユという細い鳴き声は、気がつけばギャッギャッという荒っぽいものに変わっていた。

 

マジマ「思考の旅」

タバコの煙を形容する際に、「紫の煙を吐き出す」なんて言う人がいるが、あれは嘘だ。どんな内容の煙であっても煙は煙。色なんて白以外にありえない。現に僕がいま吐き出しているこの煙だって、どこからどう見ても正真正銘の純白であるし、そもそも眼前のこの色以外の色彩を持ったタバコの煙を、僕は生まれてこの方見たことがない。いや、誤解して欲しくないのだが、僕は別にタバコの煙の色を「紫」と表現する人間を批判しているわけではない。おそらく煙の色を「紫」と表現するのは、タバコの毒性を強調して色彩を表現することで、読者にその文章が描こうとしている情景をより具体的に表現するための技法だろうということは、僕にだって察しがついている。第三者に物事を伝える文章においてイメージを強調するのは、非常に重要なことである。ただでさえ、文章、言葉というものは、映像等と比べて情報量が少ないのだから。従って、現実にはありえない色彩を用いて物事を形容するという行為は、僕としてはむしろ称賛したいことである。人間の眼だけでは決して捉えられない風景を、「脳内のイメージ」というフィルターを使って発想し、それを用いて、実際の事物を、現実にそれを見る以上の具体性を引き出した上で他人に伝える。そのような素晴らしき人間の英知と努力との結晶が、「紫色の煙」なのだから――

そう。いま僕は退屈している。そんなくだらない思考が脳髄を独占してしまう程度には、退屈している。こんな状況に置かれれば誰だってそうだろう。色あせた時刻表を確認し終えた手ぶらの人間に残されたタスクといえば、いつ来るとも知れぬバスを待つことを置いて他にないのだから。僕の頭にも、他の人たちと同じように脳味噌が詰まっていて助かった。特にやることが無いこんな状況でも、とりあえず思考を巡らせて時間を潰すことができる。
「ふーゥ」
頭が原稿用紙の人間には、どうも紫色に見えるらしいそれを吸い込んで、唇からタバコを離す。唇を軽く尖らせて、白い煙をゆっくりと吐き出す。夜の暗闇が背景となり、煙の純白がより強調される。うん、やっぱり白い。
自分の認識が現実と噛み合っていることを確認して、僕は目の前の灰皿へタバコを放った。こうして天寿を全うしたタバコを葬るのは、今のヤツで五本目くらいか。
バスは、まだ来ない。

 

水玉桃子「さよならナイチンゲール」

あなたは私のナイチンゲール。
そのお姿を拝見するだけで、身に余るほどの幸せを感じるのです。お言葉をいただくだけで、まるでこの世の全てから承認されたような気持ちになるのです。あなたが施してくださる無償の愛。この上ない癒し。
私だけのナイチンゲールでいてほしくなってしまう。
でもそんな我侭は到底許されません。きっと誰もが、それを望んだことでしょうから。
それこそが、あなたがナイチンゲールでいられる理由でしょうから。

最近やけにオリモノが出るし黄色い気がするな、汚いな、くらいの軽い気持ちで産婦人科に行くことにした。もともとひどい生理不順にかれこれ十年近く悩まされている私としては、そろそろなんとかしないといけないという神の思し召しなのかもしれない、とすら思える。子宮がん検診が云々カンヌンと騒がしいこのご時世に、不調のある身で病院嫌いを発症していたのがまずおかしかったのだ、とまで考えて、大きく一歩前進するような気分で自動ドアを抜けた。
九月のまだ暑い外気をシャットアウトすると、程よい冷房が心地よく、受付はピンクを基調とした清潔感のある造りであった。近さだけで選んだのだけれども、比較的新しい病院なのかもしれない。
「あの、初診です。オリモノで悩んでいて、受診したいんですけど」
「では保険証をお出しください。……ハイ、ありがとうございます。ではそちらの椅子におかけになって、まず問診票を書かれてくださいネ」
齢三十を過ぎた頃であろう看護師が、そう慣れた風にペラペラと喋ったことで、私の産婦人科デビューに対する緊張は即座に解けた。なんだ普通の病院と変わらないじゃない。もちろん普通の病院であることは間違いないのだ。しかし世間からしてみれば、まだ若造で学生の二十一歳が、産婦人科の門をくぐるということがどれだけの妄想を引き起こすことか。実際のところ私は昔から真面目な学生であり、今だって割といい大学に通っているのだけれど、周囲から見てそんなことがわかるはずもあるまい。幸い今日は患者数が少ないこともあり、全ては杞憂に終わり、リノリウムの床を必要以上に冷たく感じる必要もなかった。
問診票だけが普通の病院と違う、という風に受け取れた。性交の経験はありますか、妊娠の可能性、出産は、と女性特有の質問が後半にズラリと並ぶ。こういきなり見ず知らずの他人に問われると、柄にもなく赤面してしまう。それでも妙な不調から解放されたい一心で、インクの出が悪いペンを動かした。

性交の経験はアリ。いまの彼氏と互いの家を行き来するようになってから、数えるようなものではなくなってしまう程度の回数、アリ。ただ避妊はしているので、妊娠の可能性はないと思われる。
記入したものを問診で詳しく聞かれたため、私はその通り正直に答えた。それと気になっていた生理不順のことも。皺の深い優しそうなオジイチャン先生は、見た目通りの優しい声音で話を続ける。
「ええ、さいですか。失礼だが、君のカレさんは、他に異性経験は御座らんのですか」
なんとなくそういったことも聞かれるような気がしていたが、実際のところ彼氏、晴樹は、私と付き合う前に二人とそういう経験がある、らしい。ただ私との交際が始まってからもうすぐ一年が経とうとしているいま、そんな系統の病気は出来れば疑いたくない状況である。
「はい、ええ、まあ。とりあえずオリモノを採取して検査しんと、なんとも。そこの台に乗ってください」
私への返事もおざなりに、開脚式の診察台に案内される。目の前にカーテンが降ろされ、内部に鉄のような細い棒を挿し込まれる。人生においてかなり貴重な経験をしているはずなのに、恥じらいよりも異物感が強すぎて、どうでもよくなった。とりあえず明日、下ネタ好きの友人に報告することに決定。
検査結果が出るまで少し時間があるらしく、廊下にあるベンチに誘導された。待合室からかすかに赤ん坊の声が聞こえる。いずれは私も家庭を持ち、子どもを産み、家事や仕事の合間を縫って、こうして日の暮れる頃に検診に来ることがあるのだろう。その相手が晴樹である可能性も、無きにしも非ず。
晴樹との関係は、一応はうまくいっているのだと思う。私にとっては三人目の彼氏で、出会いは友人からの紹介というか、流れというか。共通の友人が多いので、気を遣わず気兼ねなく話すことができる。言い方を変えると、ときめきはない。恋をしていると呼んでいいのかはわからない現状。それでも、悪くはないから付き合っている。こう言うのも失礼かもしれないけど、もともと自分の市場価値をきちんとわかっているらしく、浮気の気配もないし。それだけでじゅうぶんなのではないかと思う。あまりに恋人らしさがないところなんて、ネタとしては面白いし。デートなんてもうどのくらい誘われていないだろう。なので、晴樹との時間はレンタル彼女ごっこをしているつもりで過ごしている。意外と本気でレンタル彼女をやれば天職かもしれない、と友人と笑うのが楽しいのでよしとする。

 

篠原歩「百年後も君はエロい」

二人の間に会話が全くないので、「スーパービュー踊り子号って変な名前じゃない?」と訊いて状況を打開しようとすると、「うーん、確かに。変かも」なんて言葉が返ってきた。その味気ない返事を聞いて僕は、彩弥にスーパービュー踊り子号に対する知識が足りないのだと判断した。
「そもそも、スーパービュー踊り子号とは別に、踊り子号っていう電車があるわけ。それはもちろん、伊豆に向かう特急だからってことで川端康成の『伊豆の踊り子』をもじっているんだ。そして、踊り子号を導入した後に、もっと窓が大きい車体を導入したんだけど、これを従来の踊り子号と区別するために、スーパービュー踊り子号って名前にしたんだって。ビューって言うのは、景色って意味ね。で、超いい景色だからスーパービュー。面白くない?」
彩弥が「ふーん、詳しいね」とスマホで何かを打ち込みながら返事をしてきたので、「Wikipediaと知恵袋で見ただけだよ」と謙遜しておいた。実際、Wikipediaと知恵袋しか見ていない。
一昨日からエアコンの調子がおかしい。数時間つけっぱなしにしていると、突然「ぶしゅー」という大きな音を立てて運転を止めてしまう。いつもは小さな緑のランプが常時点灯して運転中であることを示すのに、「ぶしゅー」の後は自らの不調を訴えるように、緑のランプをぴかぴかと点滅させる。越してきてから、こんな状況に陥ったのは初めてだ。リモコンでスイッチを一度切ろうとしても操作を受け付けない。どうしようかと迷った挙句にエアコンのコンセントを抜いてみると、電力を絶たれたランプはあっけなく消える。そして、再びコンセントを差してスイッチを入れると、何事もなかったかのようにランプを緑に点灯させて運転を再開する。しかし、またしばらく運転していると「ぶしゅー」と音を立てて運転を止める。
そんなことが五回ほど続いて、今では「ぶしゅー」の度に「またか」とつぶやいてコンセントを抜くために立ち上がるようになってしまった。昼に彩弥が遊びに来てからは、まだ一度も止まっていない。でもいつ止まるか分からないので、僕はエアコンの方を十五分に一回程度気にしながら、スーパービュー踊り子号の話を披露した。
今日は今季で最も寒いらしく、雪が視界を悪くし、風が強く吹いて時たま窓を叩いて鳴らす。年が明けて一週間も経つと正月気分が日本全国からすっかり抜け去り、茶の間に届く公共電波からもおめでたさがすっかりとなくなってしまう。ゆえに、僕らも日常を取り戻していると言って差し支えない。
見たい番組が特にないとき、僕のテレビにはだいたいフジテレビの番組がついている。これは、僕が朝も昼もフジテレビを見ることにしているからであり、だいたいずるずると夜までフジテレビをつけっぱなしにしてしまうことになる。一人暮らしを始めてからその習慣を二年弱続けたせいで、最近は無音が恐ろしくなってしまった。だから、僕の部屋では眠るときにもフジテレビがついている。アイドルをやっている高校時代の同級生のとか、コメンテーターをやってる小学校時代の校長先生とか、そういう人たちがフジテレビに出ているのを見ると、画面の向こうも現実なのだと感じることができる。そんなことで、僕は寂しさを紛らわしているのだ。
彩弥は、スマホでやらなければならないことが一段落したのか、やっていたゲームに飽きたのか、スマホを机の上に置いて、バッグからペンケースと一冊の本を取り出し、僕の横で広げてその本を読み始めた。
「何してるの?」
「レポート書こうと思って」
「それは、自分の家で書いてもいいんじゃないの?」
「自分の家じゃ集中できないかなと思って。ていうか、レポート書くために千春の家に来たみたいなところあるし」
みたいなところあるし、という言い回しで彩弥は断定を避けたけれど、僕の家に来た理由は、集中してレポートを書きたいからというただそれだけのことなのだ。僕が机の上に置きっぱなしにしている本や文房具を適当に端へと追いやって、彩弥はバッグの中から十五インチで白い富士通のパソコンを取り出した。大学へ入学するときに、大学生協で買ったやつだ。彼女は赤が好きだし、そのモデルには赤いものもあるはずなのだけど、大学生協では白いモデルしか売っていなかったらしい。彩弥のパソコンは、僕のパソコンよりも起動するのがとても遅い。彼女が机を指でとんとんしながら待っているのを見ながら、「何のレポート?」と尋ねた。
「近代文学史のレポート」
「ふーん。何について書くの?」
「自然主義文学について調べて、二千字程度でまとめて来いって」
「まとめて来いって先生が言うの?」
「いや、そりゃあ先生は、まとめて来てくださいねって丁寧に言うけどさ」
「まあ、そうだよね。自然主義って、田山花袋とか?」
「なんかそんな感じ。家でこの本読んでたんだけど、ヨーロッパの自然主義との違いに着目して書こうかなと思って」
「へえー、いいんじゃない」
文学の勉強をサボっていた僕には自然主義=田山花袋しか思い浮かばなくて、そこで会話を途絶えさせてしまった。やっとパソコンが立ち上がって、彩弥はレポートの序文を書き始めた。

日本における自然主義の起源は島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』に求めることができる。もちろん、例えば永井荷風のゾライズムにまで遡ることも可能であるが、西洋と日本における「自然主義」の違いを考えたときに、藤村や花袋を日本的自然主義文学の祖とするのが適切であろう。

「日本と西洋の自然主義ってどう違うの?」
「どう違うんだろうね」
「え? それを今から書くんじゃないの?」
「そうだよ。今から書くから、今から調べるんだよ」
そう言って彩弥は持ってきた本をひとしきり眺め、僕の家のWi-Fiに繋いだパソコンでWikipediaの「自然主義」のページを開いて見つめていたけれど、しばらくして「これは図書館に行かないと駄目だー」と言ってWikipediaを閉じ、ブラウザで出来るタイピングゲームを始めた。
「何しに来たんだっけ?」
「レポートだよ」
「でも、今はタイピングゲームしてるじゃん」
「じゃあ、タイピングゲームしに来たことにしといて」
彼女のやっているタイピングゲームは、限られた時間の中でいかにタイプして得点を稼ぐことができるかを競うものだ。彼女はゲームに集中するために僕の話を聞き流している。
四回目のチャレンジを始めたところで、僕はつまらなくなり、彩弥の背後に座って彩弥のお腹のところで手が合わさるように抱きついた。それを彩弥は無視したので、灰色のスウェットワンピースの下から手を入れて、彩弥のお腹をさする。彩弥は少しだけお腹の方に視線を移したけれど、それは一秒にも満たず、すぐにゲームに戻った。もっと言えば、お腹を気にしている間にもタイピングの手は止まることはなかった。
「彩弥の今日の服、エロくない?」
「エロくない」
「何カップあるんだっけ?」
「F寄りのE」
「F寄りって言う必要ある?」
「見栄張ってんの」
四回目のチャレンジが終わり、彩弥は舌打ちをした。過去三回よりも成績が悪かったのだろう。あるいは、自己ベストを更新し損ねたのかもしれない。そのまま、五回目の挑戦を始める。
タイプし続けると手に力が入りづらくなるらしく、それを補うためなのか、キーボードを叩き方が段々と乱暴になってくる。僕はそれを、カチカチという音の増大によって知る。
会話は一向に広がりを見せない。僕はどんどんとつまらなくなっていって、腹辺りをさまよっていた右手を素早く上に這わせ、彩弥の右おっぱいを下着の上から触った。反応がない。
僕はゆっくりと、下着とおっぱいの隙間に侵入する。
すると突然、彩弥がキーボードから手を離し、僕の手を思い切り払って、こちらの顔を睨み、「今はそういう気分じゃないから」と言ってまたタイピングゲームに戻った。僕も別にそういう気分ではなかったんだけど、言われてみれば「あわよくば」という気持ちがないこともなかった‍ので、「そういう気分ではなかった」と強く否定することができなかった。
「成人式出るの?」
と僕は訊いた。
「もちろん」
「地元で?」
「もちろん」
「いつ帰るの?」
「明日」
「明日?」
「明日の昼くらいに新幹線」
「そうかー。振袖姿の写真送ってね」
「気が向いたらね」
「気が向く魔法かけとく?」
と言いながら再びスウェットワンピースに入り込もうとすると、怒気を含んだ声で「やめて!」と言われた。僕は驚いてしまい、侵入を断念し、エアコンが止まっていないかが気になって、エアコンが設置してある窓際上部を確認した。

 

雪瀬卯花「水族館の人魚」

泳ぐのは苦手だった。
浮くことも、前に進むこともできたけれど。
息継ぎだけがどうにもうまくいかないのだ。

夏期講習に行きたくなくて、でも、玄関を出てしまった以上家族のいる家に引き返すわけにもいかず。僕は、くたびれたスニーカーを海風の吹くほうへ向けた。
革のカバンを引きずるようにして、歪んで見えるコンクリートを踏みしめ、たどり着いたのは海辺の水族館だった。流線型の建物は白いクジラに似ていた。クジラに見下ろされた僕は、ぼうっとする頭で入館料がいくらになるか考える。昔から、暑いのにはめっぽう弱い。
この市の住民であることを証明できれば、確か半額まで割引されるはずだ。僕が最後にここを訪れたときから、制度が変わっていなければ。学生証は胸ポケットに入っているし、学割と併用して600円というところか。
僕が受けている、高校主催の夏期講習は希望者を対象としたものだ。高校自体は夏休みの真っただ中、この時間に制服でほっつき歩いて、堂々と学生証を出したとしても、自習にでも行くつもりだったのだと思われるだけだろう。うだるような暑さに、やる気が負けたのだとも。
600円。勉強に疲れた高校生が、夕方まで適当に時間をつぶすのには妥当な値段だ。
「年間パスポートはお持ちじゃないですか?」
「持ってません」
お作りしますか、と受付のガラス窓の向こうで聞かれたが、お断りしておいた。顔写真の入ったカラフルなパスポートは、一年に二回ここを訪れれば元が取れるようになっているが、そんなものを手に入れてしまえばまたここにサボりに来てしまいそうだ。代わりに無料のスタンプカードを頂いておいた。十個のスタンプがたまると、小さなイルカのぬいぐるみがもらえるらしい。日に焼けてぱさぱさになった水色のイルカが、ガラス窓の端に下がっている。
「現在、企画展示はお休み中です。申し訳ございません」
お姉さんはそう言って、チケットと三つ折りのリーフレットを差し出した。チケットにはアザラシの写真が載っていた。僕が小学生のときには、アザラシはいなかったような気がする。

ロビーから展示ゾーンに入ると、照明が一気に青く、暗く絞られた。目が慣れるころに、冷房の風がむき出しの腕をあわ立てる。人は、まばら。夏休みなのは子供だけだ。
順路に従って常設展示を見て回る前に、お姉さんの言っていたお休み中の企画展示室に目をやる。夏の真っ盛りだというのに企画がないなんて、この水族館も不況のあおりをくらっているのだろうか。それとも、八月の終わりに切羽つまった、子供の自由研究を手伝うための入念な準備でもしているのだろうか。
扉の閉まっている企画展示室の前には、看板が背を向けて立っていた。興味本位でひっくり返してみると、「南国の魚特集」という文言と共に、青と黄色の魚が大写しにされていた。少し色褪せているので、前にも同じような展示企画をしてこの看板を使ったのだろう。特集、やればいいのに。夏らしくて、いいじゃないか。現実からも遠くて。
その気持ちが何だったのかと言えば、なんとなくとしか答えられない。どうせ何も起こらないのだからなんとなく、僕はさっき看板をひっくり返したのと同じように、しんと閉じたままの扉に、手を――伸ばした。音を立てないように。
目の前に広がったのは境目を共にするような青い空と海だった。海辺の街に住む僕にとってはよく知った光景だが、こんなに広い窓から改めて見ると、本当にこの場所には、終わりというものがないのだ。空も海も青いままで、僕らが知りえない果てまで続いている。
そして。
「あら、知らないひとだったわ……ええと、どちらさまでしょうか?」
間延びした、歌うような声が僕の右耳にすっと入り込んだ。それはあまりにも澄んでいて、もうサボり魔の不良高校生から不法侵入者に進化を遂げようとしている僕は、肩を慄かせるのが一拍遅れた。
「す、すいません!」
人がいた。入ってはいけない場所に入ってしまった僕を、そのくせ広すぎる窓の外にくぎ付けになっていた阿呆な僕を、見ていた人が。
こういうときはへこへこ謝れ。誠意を見せれば許してもらえる、まだ制服を着られる僕は。
いや、でも、鍵を開けっぱなしにしておくのもいけないのじゃないか。僕は自分の身を守る手段をひたすら考えながら、声の主をこわごわ探す。従業員か、声からして優しげな女性だ。ここで謝るだけで許して頂けるかもしれない。学校か家に通報されては、僕は本当に困ってしまう。すべて自分のせいなのだけど……。
それにしても、従業員らしき人影は一切見当たらないのだ。
「ここですよ、ここ」
澄んだ笑い声と一緒に、水面を叩くぱしゃ、という音がした。なるほど水槽の中に。整備やエサやりのために、ダイバーが水槽に潜るのは見たことがある。
もう、素直に怒られよう。通報だけはされないように踏ん張ろう。
「あの、本当に。僕、鍵が開いてるなんて思いもしなくて」
しかし、窓際の水槽にダイバーを探した卑屈な僕の予想は大きく裏切られた。いや、僕は企画展示の看板を見たとき、現実から遠くていいと思ったのだったか。ならばその点においては、そこにいた彼女はこの上なく期待に応えてくれたのかもしれない。
鮮やかな色をした小さな魚たちに交じって、水槽に浮かんでいたのは、たったひとりの。
「な、な」
ひとり? 一匹、いや、なんだあれは。それこそ酸素を求める魚のように口をぱくぱくと動かし続つける僕に、それは優しく微笑んだ。
こっちが見えているんだ。マジックミラーになっていないんだ、この水槽。動揺しすぎてどうでもいい情報が頭を滑っていく。
「びっくりしました?」
たゆたう金色の髪の間を、赤い魚がすり抜ける。左右で色の違う瞳がこちらを見つめる。白い頬に浮かぶえくぼが、僕を捉えて離してくれない。
きっと果てのない空と海がよく見える特等席、企画用の大きな水槽にゆらゆらと佇んでいたのは、たったひとりの人魚だった。
「このたびはお忙しいなか、ご来場いただきまことにありがとうございます」
白熱灯の照明に透ける、桃色の尾がひらりと揺れた。僕のためだけに。

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篠原歩(あとーす)

篠原歩(あとーす)

無間書房代表。短編や140字小説を書いています。
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